壮大な嘘、ありふれた境界線

頭の回転が逆回転中の猫の悲鳴が聞こえたのでジョセフィーヌは舌打ちをしたのだけれど、それは単なる勘違いであって、馬小屋で生まれた赤ん坊の悲惨な第一声であった。人間が生まれてまずはじめにすることは悲鳴をあげることなのだと言って、誰が反論できるだろう。悲鳴をあげられなかった子供はそのまま透明なピンク色の夢を見続けることになる。悲鳴をあげた子供は目覚めてその後何を見るか、それはあなたが一番良く知っている筈だ。
取り敢えずジョセフィーヌは勘違いをしたままである。しかしスパゲッティを茹でて食後にテレビを見ながらコーヒーを淹れて歯磨きをして就寝するという一連の動作の中に、その勘違いを正すきっかけが存在するわけもなく、ジョセフィーヌは夢を見る。
視界一面に広がる黄色い海、顔を出すのは出来損ないの人魚、蒼褪めた太陽、ピーナツバターの匂いがする風、飛び出した畸形のかもめ、わたしは一体何を見ているんだろう、目をいくらこすっても、ぎゅっと深いまばたきをしてみても、海は黄色いままである。誰かが「元の場所には戻れないからもう諦めなさい」と耳元で囁いた。それは幾らかショッキングな話ではあったが、わたしは見慣れない世界に少し興奮してもいた。だからわたしはすぐに、真っ赤な砂浜ではさみが三つに分かれた緑色の蟹と遊び始めた。
次の日の朝にジョセフィーヌは馬小屋で赤ん坊が生まれたことを知って、また一つの新しい世界が始まったことを、喜ばしいことのようにも、だいぶ悲劇的なことのようにも感じるのだった。
わたしは嘘を吐く。「元の場所に戻ってマーガリンを塗ったトーストを食べたい」ピーナツバターの匂いがする風はじっとりと生温い。

ちゃんとした文章が書けなくなった。ぶつぎりの言葉しか思い浮かばないので仕方ないからぶつぎりの言葉を繋げてみる。意味を越えようとしても、読まれないテクストは、命を吹き込まれないままで、意味を越えるべきものと、理解されるべきものの、境界線をひくことが、多分必要だ。ちゃんとした文章が書けなくなった。困っている。

noise

高層ビルのエレベーターの耳鳴りに彼は顔をしかめてその細い首を少し傾げて片方の耳に指を添えた。全ての音――床材と靴裏の衝突音やささやかな会話やエレベーターの作動音――は張り詰めた緊張感に掻き消され――そして幾分か視界はのっぺりと拡がりを失い――幻覚が見える直前の様な眩暈、見知らぬ人の足首、なんとなく生きている人々の呼吸――安っぽいビニール傘を突き破る鋭い豪雨、灰色に重たい空と落下の速度――誰かの長い髪の毛がひらひらと空気に舞う。彼は少しだけ目を細めて、遠慮がちに頭を揺すった、誰にも気付かれないように。ネクタイ、革靴、歯車の匂い。彼は高層ビル一階のエレベーターホールに頭を傾けて立ったままだった。

多分アイスクリームは溶けきっている。その甘さを思うと喉が乾いたので、罪の無い子供の涙について考えた。多分ドライアイスに意味は無かった。空気中に霧散したその白い塊について思うと目が焼けたので、世界の終わりに虹色に発光する空を想った。そして多分、あなたは私の考えることを馬鹿馬鹿しいと思うだろう。それで結局、私は何も考えていないということになるのだけれど、別にそれはそれで構わない。それは即ち、私もあなたの考えることを馬鹿馬鹿しいと思うからだ。平行線、放置された人間関係、雲の上を行く飛行機。私とあなたは決して交わらず離れもしない。凍結したコミュニケーション、相互理解という幻想、砂漠に迷い込んだ動物の悲鳴。ところで、あなたはこんな関係をどう思う?

shoe gaze

日々、影の濃度は増していく。ヘッドフォンをつけてサンダルとペディキュアを見つめながら歩いていたからふと顔をあげたときそこにいたその人を見て蜃気楼かと思いまばたきの次の瞬間には消えてしまいそうなその人はこちらをちらりとも見ず通り過ぎるのだけれどそれはその人も自分の足元を見つめながら歩く種類の人間だからで私は特に落胆などしない。ドッペルゲンガーについて考察するとき、私は必ずその人のことを思い出して、自分のドッペルゲンガーに会ったなら数日以内に死ぬ筈だと、その時をおとなしく待つことにする。足音、バスドラム、影のコントラスト、死に絶えた風、8分の6拍子、日差しの強さ。夏が来る。そしていつものようにまたすぐ終わる。

消失点を喪失した世界に彼女は立っていた。青い血管の浮き出た痩せ細った二本の足と遠慮がちに丸まった柔らかい背で彼女はただ立ち尽くす。平衡感覚だとか距離感だとか空気の確かな重みだとか、そういったことは既に彼女にとって問題ではなくて、長すぎるエスカレーターをふと振り返ってみることだとか線路の下を覗き込んでみることだとか、そういったことはつい先日彼女にとって何の問題でもなくなった。「世界と闘うことは目を背けないことだ」と彼女はただ言う、空気の微かな震え、すぐに消えてしまう震え、全ての問題を背負いこんでしまわざるを得ない人特有の震え、何よりも優しく何よりも醜い空気の震え、私にもししなければならないことがあるのだとすれば、そういった震えの類を文字にして記録することと、アイデンティティの幻想に憑依された世界にただ佇む亡霊の様な彼女から目を逸らさないようにすること、多分それだけだ。