生温い空気の夏の雨の日における素描

「絶望したんだ、と高らかに宣言してみせることは簡単だ」、フレデリックは神経質な音を立てながらラズベリーのジャムが入ったガラス壜を銀のスプーンで引っ掻き回している、その青白い腕には嘘吐きの女の子に引掻かれた赤紫色の爪痕がある、あまりの鮮やかさにわたしはその痛みよりもラズベリーのジャムを摂り過ぎなのではないかと思い至る、皺のついた黒いTシャツ、エメラルドグリーンみたいな血管、その影、蛍光灯を反射するスプーン、明確なコントラスト。沈殿した甘ったるい匂い。「そう、だから、絶望しているということは何の優位性も持ちはしない」、うつむくわたし、アイシャドウを塗っていない瞼、睫毛、わたしはコットンの水色のワンピースを身につけていて今日はじめて水色が自分に似合わない色だと気付いた(薄々感づいてはいたのだけれど)、かなしい歌、左目の見えない羊の歌。「自分の呪詛の言葉が本当に届くべき人間には決して届かないことなんて、彼等自身が一番よく、気付いている筈なのだけれど」、視野の狭い羊の暗闇のなかに見えるのは、半透明の鳩、羽が一枚多い蝶、ターコイズブルーのばらの花、ヴェールのような子供の産毛。例えば、整列している無表情の子供たちや儀礼的に交わされる挨拶や真っ白なままのノートブックなんかは見ないで済むに違いない。「人の話を聞いているの」「全然聞いてなかった」全然、聞いてなかった。コップを満たすミルクとバターが溶けて染み込んでいくトーストと目玉焼き。わたしたちは結局のところ言葉を必要としていない。けれどそれは全然悪いことじゃない。わたしたちは結局のところ本当の絶望なんて知らない。今こうやって呼吸しているんだもの。その爪痕があまりにも綺麗なんだもの。

火照ったコンクリートの熱が、ゴムで出来た靴底を通じて侵入してくるのだけれど、汗はかかないし、足元がふらつくわけでもなく、ただ真っ直ぐに進んで行く、何メートルか先で揺らめく空気から目を離さないように、「行き先はわからなくてもただ歩け」とあなたは言ってわたしはただそれに従うのだ、それはたぶんあなたに追いつくために。真っ白な光がわたしの目を焼いたとしても、わたしはたぶんあなたに追いつくために、何メートルか先で蒸発していく水分から目を離さない。

一本だけ足を失った驢馬は自分の体重を三本の足では支えきれずに乾いた砂の上に座り込む。座り込んでしまった所為で足を失ったことに他の人たちは全く気付かず、怠け者と罵った。しかし驢馬は反論するために立ち上がることも怠惰ではないことを行動で示すことも出来なかった。他の人たちはただ罵るだけで驢馬に対して何一つしてやらなかった。言葉の暴力性と無反省さという特性を充分に理解していたからだ。花の咲かない砂漠に溜息のような鳴き声だけが響いて、それがゆっくりとこだまするのを当の驢馬だけが聞いている。

A girl in the twilight

ホットミルクにラム酒を少しだけたらしてシナモンスティックでそれをかき混ぜる、という飲み物が入ったマグカップを両方の手のひらで包み込んで、その熱が徐々に自分の体内にも伝わっていくことを感じながら、日が暮れるのを待った。マグカップは陶器で白くてつやつやしている。窓の外の家路へと散り散りになる子供たちの声が、わたしの部屋の中までかけめぐって耳をかすめていく。わたしの家のすぐ近くには小さな公園があるのだ。(雨の日には大きすぎる水たまりができてしまうような、都会によくありそうな小さな公園だ。)わたしは日が暮れるのを待っていた。(なにか、特別な用事があったわけではない。)街灯がともって虫たちがそのまわりをぐるぐると踊るような、窓を開けていると隣の人の生活の匂いが微かにしてくるような、そういう静寂をわたしは待ち侘びていた。(静寂を「追いかけていた」と言い換えたほうがいいのかもしれない。わたしはそれを、心から欲していた。)わたしは呼吸する。大事な人の言葉を反芻しながら。見えないところに突き刺さったままの棘を感じながら。乾いて掠れた声を思い出しながら。ホットミルクを飲みながら。「気持ちが落ち着いたら電話して」という言葉が、耳から離れないままで、永遠に気持ちが落ち着くことなどないように思われた。少しずつ部屋の中に影が増えていく。熱を奪われたミルクが冷たくなっていく。わたしは、日が暮れるのを待っていた。

no title(something blue)

小さな鳥の鳴き声がするので私は目を覚ます。わたしは泣いていた。矛盾と孤独と渇望と背信を抱えて、青みがかったベルベットのように、色彩を失った世界がそれを再び回復する過程のなかで、わたしは声も出さずに泣いていた。今日も鳥は鳴く。静かな朝の訪れを告げる。